パッシング

私が38、9才で2トン保冷車に乗っていた頃には、ベテランの大型車の運転手の方々が、パッシングで「行け」をしてくださった。パッシングやハザードは其の当時、運転の仕事をしている人達のコミニュケーションツールだったのです。

警察の取り締まりが有ることも対向車同士がパッシングで教えあっていました。

まだ若かった私は日本の運送を扱っている方々の思いやりがトッテモ嬉しかったのでした。

 

時間は流れて、走行していると突然私の車両より前に入り込んでくる運転手が増えたのでした。外国籍の人々の運転も増加したように思った私でした。

私が育てた娘の二人の運転はオモイヤリに欠けるのは母として解っています。モウ一人の娘や息子はどんな運転をしてるかを知るチャンスはまだないのです。細い道から幹線道路への侵入は大した車間もないのに進入してしまうのです。

産まれながらにして気掛かりな姉や妹がいた私は、ソウユウ精神が養われたと思うのです。

栄公園のホームレスの人に気配りしたり、名古屋市営市バスの前に割り込むことは絶対にしなかった私でした。幹線道路への進入も車間が狭いと出来ない運転をしていた私でした。